Fleurs et plaisir
† † †
「こんにちは、可愛らしい天使さん」
ふわりと、甘い花のような香りを感じた瞬間、背後に肌がざわめくような気配が現れた。
「……何の用だ、夢魔」
無視をしても良かったが、この夢魔とは属性上、パーティを共に組むこともある。つまり”仲間”ということも出来る相手だ。個人的には不本意だが、己の我が儘で全体の和を乱すわけにもいかない。となれば、下手な対応を打つのも良くないだろうと思い直し、振り返る。桃色の髪から先端が僅かに捻れた2本のツノを覗かせ、扇情的な衣装を纏った妖艶なサキュバスは胸の下で軽く腕を組み、緩やかに、上品に微笑んだ。
「ふふ、お返事してくれて嬉しいわ。用という用は無いのだけれど…次のクエストまで時間があるから、良ければご一緒に暇でも潰さないかとお誘いに来たの」
「……相手はボクでなければいけないのか」
天使と夢魔など、一緒に居たところで有意義なことなど何も無いだろうに。無意識的に眉を顰めてしまったボクを見て、夢魔は軽く肩をすくめた。
「もう、つれないのね? そう、アナタが良いわ。だってアタシ、もっと…アナタと仲良くなりたいんだもの」
「―――!」
一瞬しょんぼりとした表情を浮かべたと思うと、次の瞬間には相手の気配が目の前にあった。同時に、夢魔の細く滑らかな指が頬をなぞる。ふわりと、強めの花の香りが広がった。本能的に何かを感じ、慌てて一歩後退り香を振り払う。
「生憎だが――……ッ」
そのまま距離を取ろうとするも、そうはさせまいと言うように腕を掴まれた。大事なものでも扱うように、丁寧に手を両手で包まれる。身を屈め、縋るような上目遣いに思わず息が止まる。そして自分に言い聞かせる。おののくな。これは、夢魔の常套手段だ。
「ねぇ……お願い。少しだけなら…いいでしょう……?」
甘く蕩けるような声。声自体が魔力を帯びている。頭の中で何かがぐらりと揺れたような感覚がした。情けない話ではあるが、今の自分は未熟な天使に過ぎない。対して相手は成熟した夢魔…悪魔だ。力の差は歴然。この魔物を退ける事は難しい。ならば、今の自分にはこの場から離れるしか道は無い。
“逃げなければ”
そう思っているはずなのに、身体は既に夢魔の術に囚われていた。意思とは裏腹に、口は勝手に言葉を紡ぐ。
「…………少し…、だけなら……」
返事を聞いた瞬間の、嬉しそうに微笑したその顔は、まるで、穢れの無い少女のそれのように見えた。
† † †
「ふふ、ねえ、綺麗でしょう?」
「…………ああ」
馴れ馴れしく、しがみつかれるような形で腕を引かれて連れてこられたのは、あまり遠くではないが、どこか仄暗い森の中だった。見せたいものがあるからと言われるがまま来てしまい、一体何を見せられるのかと身構えていたが、白魚のような指に示された先にあったのは、花だった。同じ花が一定の範囲で群を為して美しく咲き誇っていた。長く伸びた茎の先に、どこか、ボクら天使の持つ羽根のようにも見える白い花びらが幾重にも重なって開いているその花は、正直に言って夢魔が好むようなイメージのものではなかった。
「だが、意外だ」
「あら、なにが?」
「……お前達は、いや、お前はこういう花が好きなのか?」
「ん~ そうねぇ。きっとアナタが想像してる通り、もっと派手なお花も好きよ? この花は…、アナタに似合うと思って」
「……ボクに?」
「ええそう、アナタに……。もっと近付いてみましょう? とってもイイ香りなのよ」
促されるままに花に近付く。しかし、近付いてもあまりそれらしい香りは感じなかった。内心訝しんでいると、徐に夢魔が腕を上げ、指先で花を弾いた。すると、不意に強く、甘い香りが辺りに漂い始めた。その瞬間、
「――――っ!?」
ぐら、と頭が揺れた。
「あら、大丈夫?」
思わずよろけたボクを支えるように、夢魔がボクの腕を抱え込む。花の香りと、それとはまた違う甘美な香りが鼻腔をくすぐり、反射的に顔を顰めた。
「キ…サマ……、これは……」
「お気に召さなかった? それとも…天使には”シゲキ”が強すぎたかしら?」
例えるなら、酒に酔ったときもこんな感覚なのだろうか。身体が熱い。頭がぼうっとする。おかしい。たかが花の香りにそんな効力があるはずがない。
夢魔はふらつくボクを支えながら、傍らの木の傍まで誘導する。根元に座らされるのと同時に、頭上に陰が覆い被さった。顔を上げると、妖しく微笑む仄かに赤みを帯びた紫色の瞳と目が合った。
「な……、なんのつもり……」
「ウフフ…… 少し、熱を取って上げようと思って」
「!? ――――っ」
身構える間も無く、柔らかなものが唇に押し当てられた。息が止まる。逃れようと もがこうとしたが、頭を木の幹に押しつけられていて叶わない。
「…っ……、んん……っ」
強く甘い香りにくらくらする。唇を割開き、舌が口内へと侵入する。反射的に身体が大きく跳ねた。逃げ場の無い舌が絡め取られ、思わず声にならない悲鳴を上げて目を見開いた。淫靡で、おぞましい水音が響く。抵抗しようとしても、身体は痺れたように動かなかった。
「…んむ……は……、……ふふ…美味しいわ。話には聞いていたけど、天使の生気って格別なのね……」
どこか名残惜しそうに唇が離れていく。サキュバスの白い指が優しく頬をなぞり、伝う汗を掬った。
「どうかしら、熱は引いた?」
「――――………」
……熱は確かに、引いた。しかしそれ以上に力も奪われたようで、身体が思うように動かせない。声すら出せず、荒く呼吸を繰り返すことしか出来ない。サキュバスは口元に人差し指を添えたまま こちらの様子を伺っていたが、不意に ふ、と笑みを浮かべた。
「うふふ……カワイイ。ちょっとキスしただけでそんなになっちゃうなんて」
抵抗出来ないまま、そっと、優しく抱きしめられる。まるで母親が、幼子を慈しむときのように。蜜を溶かしたミルクのような香りが鼻腔を抜け、脳を侵す。頭のどこかでは、このままでは危険だ、今すぐに離れなければと思っているのに、未だ身体は言う事を聞かない。
――――このまま抱かれていたい。この温もりに身を委ねていたい。
ああ、そんなこと、思っては駄目なのに。
細くしなやかな指が頭を撫でる。
「いいのよ…、アタシに全部委ねて頂戴……」
「…………」
今にも飛散しそうな意識をどうにか掻き集めて首を横に振る。けれど、今や こんな動作をしても、相手にとっては”イヤイヤ”をする子供にしか見えないのだろう。
彼女は、慈しむように笑った。艶のある、形の良い唇が僅かに動く。
「もう…強情な……いえ、カワイイ子。――――しつけ甲斐があるわ」
「――――っ」
ぞわりとする声色で呟かれた言葉は幻聴か。指が髪を掻き分け、首の後ろに触れる。反射的に身体を強張らせれば、相手はふわりと笑う。
「怖がらないで」
「……ぁ……っ」
首をなぞられ、思わず情けない声を上げてしまう。そのまま指は頬へと回り、そっと顔を上向かされる。魔性の瞳が、いつの間にか日の落ちた薄闇の中で爛々と輝いていた。背筋に悪寒が駆け抜ける。―――それなのに、”美しい”と思ってしまった。
「イイ子ね」
優しく触れるだけの口付けが額に落とされた。甘く、心地良い香りがまた広がって、思考が薄い霧で覆われていく。
「――おやすみなさい」
言葉に導かれるように、意識が少しずつ薄れていく。
(――――だめ、だ……)
目を、閉じては。彼女の思い通りになってしまう。
甘やかな拘束から逃れようともがく。もがいているつもりだった。拘束は解けない。まるで、抵抗らしい抵抗など何もされていないかのように。ままならない視界の中、せめてと目の前にあるはずの顔を睨み付ける。
「フフ、そんなに見つめないで頂戴。照れちゃうわ」
しかし、それも意味を為さないのか、彼女のころころと笑う声が耳をくすぐった。そして、
「♪~」
不意に、歌声が響いた。さながら子守歌のようなそれは、”だめ押し”のようだった。優しく、眠りへと誘うようなメロディーが暗い森の中に響いていく。それに伴って、強い花の香りが辺りを覆い始めた。
魔力の籠もった歌声が、香りが、僅かに残った意思を刮ぎ落としていく。口を開いてももはや声は出ない。虚しく空気の鳴る音がするばかりで……
「―――――」
視界が一色に染まる。甘く、柔らかな温もりに抱かれたまま、意識は夢の中―――夢魔の領域へと呑み込まれていった。
† † †
ほんの少し、身体に預けられた重みが増したのに気付いたところで、サキュバスは歌を止めた。腕の中で眠った天使の顔を覗き込んで、さながら聖母のような純粋な微笑を浮かべる。それから一瞬だけ微かに申し訳なさを示すように、眉尻を下げて言った。
「ごめんなさいね、思っていた以上に生気を貰い過ぎちゃったみたい……」
指の背で天使の頭を軽く撫でる。さらさらとした麗しい紫色の髪が指の上を流れていくのを見て、サキュバスは ほぅ…と息を吐く。
「天使って…本当に”美しい”のね。それとも、アナタがその中でも特別なのかしら。気高き闇属性の天使さん」
天使と夢魔は本来であれば相容れない存在だ。純潔である天使の生気は上質だというのは、夢魔の間では有名な話であるが、摂取しすぎると毒にもなり得るとされている。最高の気分を味わわせてくれるが、下手をすると自身に危険を及ぼしかねないもの。さながら麻薬のようなものだ。だから、生気を奪うにしても味見程度で済まそうと思っていたのだけれど。
「……ねえ天使さん、アタシ、アナタが欲しくなっちゃったの」
一口、口にしただけで「もっと欲しい」と思ってしまった。あまりにも穢れの無い、澄んだそれは成熟した夢魔でさえも依存心を抱かざるを得ないものだった。そこまで純潔であれば毒にもなろうが、身体が拒否反応を示さなかったのはその中に僅かに闇の力が混ざっていたせいだろうか。
闇の力をその身に宿しながらも決して天使としての誇りを捨てようとしない愚直とすら思える気高さ。それが夢魔にとっての”美味しさ”であったのは、彼にとってはこの上無い皮肉になるだろう。
「アナタが思っていた以上に”美味しかった”から…、もう、離したくないわ」
赤紫色の瞳が、思惑的な輝きを帯びる。コウモリのそれのような黒い翼が、天使を月光から遮るように大きく広がった。
「だから、一緒に行きましょう。アタシの世界へ。……とっても大事にしてあげるから」
力の抜けた身体をもう一度強く抱きしめて、返事の無い唇に口付ける。その唇が離れた時、その場に残ったのは夜風に揺れる白い花々と、それが放つ強く甘美な薫りだけだった。
† † †
アビス君視点だったので、無闇に描写するとムッツリっぽく見えちゃうかも…と思って書き(け)ませんでしたが、密着してるときは基本的に”当ててんのよ”されてたと思います(爆