Hallucination de Rose
† † †
夢を見せてあげよう
永遠に覚めない、悪夢を――――
噎せ返るような薔薇の香りが立ちこめている。目を覚ました瞬間にも吐き気を催させる程のそれは、僕の周囲の至る所から立ち上っていた。身体を起こせば、シーツ一面に散りばめられた無数の薔薇の花。茎の付け根から切り落とされた花々は、グロテスクなまでの赤色で、綺麗というよりも、寧ろ不気味な印象を受けた。
改めて周りを見回し、自らの置かれた状況を把握しようと試みる。薄暗い部屋だ。それなりの広さはあるものの、照明器具のようなものは置かれておらず、壁の色も判断出来ない。しかし、このベッドの周りだけ不思議な…恐らくは魔法による灯りが灯され、シーツ上の薔薇を含めて妖しげな空間を作り出していた。視線を戻し、息を吐く。こんな場所、僕は知らない。知るわけがなかった。普段通り、夜、自室で眠りについたはずだったのに。
誘拐、などという言葉が浮かんだが、誰が、何のために?
なんにせよ、こんな場所からは一刻も早く抜け出さなくてはならない。そう考え、寝台から降りようとしたその時、僅かな靴音が響いてくるのが聞こえた。
「………………」
動きを止め、息を殺す。足音は少しずつ、けれど確かに真っ直ぐとこちらへ向かってくる。やがて、闇の中から浮かび上がるように姿を現したのは、波打つような長い藤色の髪をした青年だった。
「……やあ、目覚めていたんだね。マイエンジェル」
甘く、愛おしげな声色、そして何よりも初めてされた呼ばれ方に、反射的に表情が引きつってしまった。何とか普段通りの笑みを整え直し、相手の意図を探ろうと試みる。
「ええと…初めまして……? キミは誰なんだい? どうして、こんなことを……?」
質問をまとめて投げかけると、相手は胸元に指を当て、ゆるりと微笑んだ。
「ああ……ボクはインキュバス。よろしく、可愛らしい天使さん」
「インキュバス……」
思わず眉を顰める。インキュバス。他人の夢に入り込み、その身を穢す悪魔だ。なんとなく察する。ここは、恐らく彼の夢。彼の世界の中なのだと。自分は眠りについた後、彼に拐かされたのだと。しかし、インキュバスが狙うのは本来……
「それから、どうしてキミをここに連れてきたかというとね……」
「!」
不意に軽く顎を持ち上げられた。間近に迫った紫色の瞳が愛しげに細められる。
「ボクは、キミに恋をしてしまったからだよ。ハニー」
「…………………」
ぞわりと肌が粟立った。図らずも声が震える。
「あ、あのね……僕は男なんだけど……?」
彼が、名乗る通りインキュバスであるなら狙うのは女性のはずだ。若干不服ではあるけれど、僕を女性と間違えているだけなら、男と分かれば解放してくれるはず…… ところが、そう思ったのも束の間、彼は肩をすくめて息を吐き、こう言った。
「Ah… No problem…」
「えっ……」
予想に反した返事。背筋をざっと冷たいものが駆け抜けた。僕が呆然としている間に、彼は一人で役者のように大きな手振りを交えながら語り出す。
「この島は、あまりにカワイイ子が多すぎるんだよね。この前だって魔法使いの美少女かと思えば男だったし、ついこの間もシルクのような美しい紫髪の死神と天使のレディ達が居たかと思って声をかけたらこれまた男で絶対零度の眼差しを向けられたんだよ?」
「ああ……」
死神の方はともかく、天使の方は心当たりがあった。
「それは……災難、だったね……」
とはいえ、そう返すほか無かった。そんな災難(?)に遭った彼に、今自分がこんな目に遭わされている理由も分からないし。
「まぁ、それでボクはこう思ったのさ。この際、男でもキュートなら構わないんじゃないか、とね」
「…………………」
…………なんで?
整え直したはずの笑みが、また引きつり始めているのが自分でも分かる。
「ボクはもう飢えて飢えて仕方ないんだ。瑞々しい生気を吸わないとそろそろ肌のハリが…いや、ボクがボクでなくなってしまう……!」
芝居がかったオーバーな手振り口ぶりでインキュバスは続ける。
「人助けだと思って、お願いだよハニー」
「……な、何を……?」
無駄と知りつつもシーツの上を後ずさる。どう考えても厭な予感しかしない。
「キミの生気を分けておくれ」
「ごめんね、悪いけどキミのお願いは聞けな――――」
「逃がさないよ」
「――――ッ!!」
半ば予想通りの答えに、いよいよベッドから飛び降りようとした瞬間、一面に散乱した薔薇から無数の茨が飛び出し、四肢へと絡みついた。自身も寝台へと上がり、シーツに膝をついたインキュバスが慈しむように笑う。
「残念だけどねハニー、ここはボクの世界の中なんだ。この空間の事象はボクの思いのまま。つまり、キミはここから逃げることは出来ないんだよ」
「…………ッ」
もがけばもがくほど、茨は強く絡みついてくる。鋭い棘が、無防備な手の甲を傷つけた。
「嗚呼いけない、せっかくの陶器のような肌が勿体無いよ」
夢魔の指が傷口に触れる。それから、この手を持ち上げ、甲へと口付けた。ぞわりと言いしれない感覚が身を襲う。
「……っ」
「おや、キュートな反応をするね。もしかしてこういう事されたこと無いのかい?」
……無いわけでは、ない。僕らだって敬愛を示す口付けを行う事はある。だけどこんな、何気ないはずの行動にも劣情のような、何か仄暗い感情を感じるのは初めてだ。
「あぁそうか、キミは天使だものね。それなら、尚更優しくしてあげないと……」
自分だけ何か納得したように、インキュバスは独り言ちて頷いた。
「な、なにを……」
徐に頬に手を添えられ、軽く顔を持ち上げられる。身を引きたくても、茨に阻まれて叶わない。
ふわりと、薔薇の香りが一層強く香った。同時に、息が止まる。正確には、呼吸が遮られた。口付けられたのだ。夢魔に。僅かに身体が微かに痺れ出す。このままでは危険だ、と思った矢先、
「――――っ!?」
ぬるりと唇を割開き、熱い異物が口内へと侵入した。反射的に、びくんと大きく身体が跳ね上がる。我が物のように、それは口内を泳ぎ、歯列をなぞる。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上がり、無様な呻き声が上がる。相手が顔の角度を変えれば、それは更に口内の奥を侵す。舌を絡め取られ、嫌でも耳に響く水音に肌が粟立った。
「ふ……っ」
気持ちが悪くて、苦しくて、頭がクラクラする。抵抗のために相手の袖を掴んだ指から力が抜けていく。何かが、奪われていく感覚がする。頭の中がもやに覆われかけたところで、ようやく、異物は口内から抜け出ていった。
「…は………」
大きく肩を上下させて息を整えながら、ゆるゆると視線を落とす。自身の服に引っかけられたままの指を見て、インキュバスは目を細め、笑う。
「どうだい? 今まで感じたことの無い感覚だったろう?」
「………………」
息を整えるのに精一杯で答えを返せない。夢魔は自分の唇をペロリと舐め、続ける。
「それにしても、キミたち天使の生気は格別だね。今まで味わったことの無い様な美味しさだよ」
「そ、そう……」
呼吸は落ち着いてきたが、依然として身体は鉛のように重く、頭も上手く回らない。
「もっと味わわせてほしいんだけど、良いよね?」
「…いや…だ……―――――」
言い終わる頃には、既にそっと身体がシーツへと沈められていた。赤い花弁が軽く舞い、また噎せ返るような強い香りに包まれる。頭上からこちらを見落ろす夢魔は、小さく唇を濡らし、笑った。
「ふふふ…… そんなつれない事言わないで。さあ、甘い夢を見せてあげるよ――――」
身体に絡みついていた茨が、退路を妨げる檻へと姿を変える。
―――――もう、逃げられない。
爪の長い、整った指先がシャツのボタンを1つ1つゆっくりと外していく。肌を露わにされ、思わず羞恥心が湧き上がった。
「やめ……、な、何をする気……?」
「ふふ。天使であるキミに、“快楽”というものを教えてあげるんだよ」
「……っ」
ひやりとした指が、肌に触れる。そのまま首筋をなぞるように移動させ、シャツの襟元を広げる。そして露わになったそこに、唇を当てる。吸い付くような感覚に、また肌が粟立った。じわりと身体が熱くなる。知らない内に魔法でもかけられたみたいだ。……こんな感覚、僕は知らない。
夢魔の指が身体を這い回る。ただそれだけのはずなのに、ぞくぞくとした感覚が全身を巡っていく。
「本当にキミは綺麗な肌をしているね…… 男なのが実に勿体無いよ」
「残念ながら……性別は変わらないよ。だから早く……解放してくれないかな」
「おや、声が震えているよ? まるで生娘のようだね」
インキュバスは小さく笑う。平素を装うとしている僕のこの反応さえも愉しんでいるかのように。首元に、頬に触れていた指が一瞬離れ、今度は唇をつぅとなぞる。
「そんな可愛いキミにはとっておきの“快楽”というものを教えてあげたいね。甘い蜜の味を知ってしまったらもう戻れなくなるように」
ざっと背筋を冷たいものが駆け抜けた気がした。夢魔の言葉の意味を感覚的に悟ってしまい、抵抗を始めるも、争いごとに向かないこの身体ではまるで意味を為さない。
「さあ、大人しくして」
「――――――っ」
また、唇が重ねられる。拒もうとしても、それをものともせず口内へ舌が侵入する。
「ん――……っ」
どんなに逃げようとしても、捕らえられ、吸われ、意識さえも持って行かれそうになる。淫靡な水音が響く。これを自分が立てているという事実に肌が粟立つ。頭がぼーっとする。舌が抜かれても、身体に力が入らない。また生気を奪われてしまったのか、それとも。
「…ぅ……、あ…………っ」
だるさを覚える身体に、突然電流のような衝撃が走る。ざわざわと、全身をまさぐられているような、快とも不快ともつかない感覚。
「……知っているよ、“キミたち”は“ココ”が弱いんだって」
翼の中を夢魔の指が遊び回る。羽根の付け根に触れられて反射的に身体が大きく跳ねてしまう。紅く塗られた唇が弓なりに歪む。羽根の流れに沿って髪を梳くかのように、丁寧に羽根の間を指が流れていく。堪えようとしても、絶えず襲ってくる感覚に吐息混じりの声が漏れた。夢魔の愛おしげな、恍惚とした声が耳に響く。
「ああ…… 可愛いね…とても可愛いよ。羽だけでこんなにイイ反応をしてくれるだなんて、嬉しくなってくるね…… さあ、次はキミのもっと深いトコロを見せてもらおう――――」
再び衣服にインキュバスの手が伸ばされた。しかし、どうにか力を振り絞り、その手首を掴むことに成功した。夢魔が目を丸くするのが見えた。
「お願い…だよ…… これ以上はもう、やめてほしい……」
自分でも驚くほどに声が震えていた。普段のように、平静を装うほどの余裕はもう無かった。
……怖い。怖かった。自分の知らないこの感覚が。知ってしまってはならないと、本能が警笛を鳴らしている気がした。“天使には不要”なこの感覚を知ってしまったら、もう戻れないのではないかと、そんな気がした。
「嗚呼 怖がらないでハニー。ボクが全て導いてあげるから。ボクを信じて、キミはボクに全てを委ねていてくれればいいんだよ」
「いや、だ……」
子供がいやいやをするように首を振る。夢魔を、悪魔を信じなどしたらそれこそ“お終い”だ。インキュバスは掴まれていた手を簡単に振り解き、今度は逆に僕の手首を掴んでシーツに押さえつけた。やはり懇願しても無駄なのか、と絶望感が心を支配していく。ところが、夢魔は少しだけ困ったように眉尻を下げて言った。
「Umm… 分かったよ」
「…………え?」
「キミに本当の“快楽”を教えてあげるのは今はやめておこうか。もっとキミがボクに心を開いて、ボクを受け入れてからにしよう。お互いが気持ちよくなれなくちゃ、きっと意味が無いからね」
「そ、それじゃあ……」
思いの外あっさりとした心変わりに、少し困惑しつつも、安堵する。このタイミングを逃してはいけない。このまま、早くこんな世界からは解放してもらわなければ。
しかし、思わず感情が声にも現れてしまったのだろう、釘を刺すように、インキュバスはぐいと顔を近づけ、目を細めた。
「でもね、すぐにキミを現実の世界に戻してあげるとは言えないな」
「…………っ」
「ボクがキミに恋をしてしまったのは本当だよ。そして天使-キミ-の生気は極上だ。要するに、ボクはキミを逃したくない。……これは分かってくれるね?」
「…………そう、だね……」
「だからね、“契約”をしよう、ハニー。キミが“快楽”を知りたくないなら、定期的にボクに生気を分けてもらいたいんだ。それを承諾してくれるなら、今日はここから返してあげるよ」
「…………」
即答は、出来なかった。“契約” ―――。夢魔や悪魔が行う契約は、人間が行うようなそれとは違う。一度結べば何があっても破棄することは出来ない。もしそれが破られるようならば、悪魔はもう容赦をしないだろう。その期に及んで拒絶は許されない。つまりこの場合、どんなに厭であろうと“知りたくないもの”を身体に刻み込まれてしまうだろう。それだけは、何よりも避けたかった。だから……僕は、
「…………分かった、よ。“契約”しよう」
頷いてしまった。結局は夢魔の思う壺なのだろうとどこかで気付きつつも、今は、この場から一刻も早く逃れたい気持ちが勝ってしまった。契約を、果たし続ければ良いだけだから。そう思ってしまった。夢魔は妖艶ながらも、にたりとした笑みを浮かべた。
「嗚呼 嬉しいよハニー。これでキミはボクのものだね。愛してあげるよ、永遠に。美しいボクに相応しい美しいキミを。何があっても逃がさないからね、キミがボクを受け入れてくれるその時まで」
唇を塞がれる。優しく、愛おしげに。後悔の念など感じさせないように。今度は生気を奪われなかったらしい。その代わり、夢魔は唇を離した後すぐに、今度は僕の首元へと口付けた。じわり、と首筋が痛む。じわじわとそこが熱を帯び始めるのを感じながら、魔の色をした瞳と見つめ合う。
「それじゃあお目覚めの時間だよ、ハニー。また今夜、夢の中に会いに行くね」
囁くような呪いのような言葉を最後に聞いて、僕の意識は遠のいていった。
† † †
――――目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む光を感じた。その僅かな光でも分かる。ここは、自分の部屋だ。見慣れた部屋、見慣れたベッド、当たり前の目覚めの光景に、心の底から胸をなで下ろす。
「帰って…来られたのか……」
深く、深く息を吐く。脳裏にこびりついた光景と、僅かに身体に残っている気がする感覚に、思わず自分の身を抱く。まだ少し、震えが止まらなかった。
学生寮を出て、教室へ向かう。その途中で、向こう側から見慣れた生徒が歩いてくるのが見えた。綺麗な紫色の髪を靡かせて、きびきびとした動作で歩く彼は、この学園の風紀委員だ。
「おはようアビス。今日も早いね」
「ああ、おはようルクス。キミにしては早い登校だな」
「フフフ たまには、ね」
一つ二つ、短い言葉を交わすだけのたわいない会話。漸くいつも通りの日常に戻れたような気がする。あんな悪夢は忘れてしまおう。せめて、今だけは。
「…………ルクス」
軽い別れの言葉を告げ、再び教室への歩を進め始めたその時、すれ違ったはずのアビスに呼び止められる。振り返ると、彼はどこか困惑したような、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「どうしたの、アビス」
「…………つかぬ事を聞くが、キミ、香水などつけてはいないよな……?」
不意に心臓が大きく音を立てた。
「今、キミとのすれ違いざま、微かに薔薇の香りがしたような…… しかし、生徒会の副会長であるキミに限ってそんな事は無いと思うんだが……」
言った彼自身も納得がいかない様子で続ける。自分でも分かるほどに心臓の鼓動が激しくなる。急激に喉が渇く。普段なら笑って返事を返すところだが、今日は思ったように言葉が出てこなかった。
「ルクス……?」
不審に思ったのだろう、アビスが傍まで引き返してくる。こちらを覗き込んだ紫色の瞳に、反射的に息を呑んでしまった。なんていうことだろう。大切な友達の瞳を見て、あの魔物の事を思いだしてしまうなんて。じわりと、首元が熱を帯びた気がした。
「どうしたんだ。違うなら違うと言ってくれれば良いんだが……」
「あ、あぁ……ごめんね…… 香水はつけていないよ。ただ…薔薇の香りが移る原因に心当たりが無くて……」
思わず、口をついて出たのは嘘。けれど、純粋な彼はこの嘘を疑いはしなかった。
「……そうか。まぁ、そんな強く香るわけではないし、今日のところは見逃しておこう。それじゃあ、また放課後」
今度こそ彼と別れる。しかし僕は教室へは向かわず、寮の自室へと駆け戻った。柄にも無く鞄を床へと放り、部屋の姿見の前に立ってネクタイを解く。シャツの襟元を広げ、そこに映る姿を凝視する。
じわりと広がる熱の中心には、小さな痣が残っていた。赤く、どこか薔薇の花が広がっているようにも見えるそれは、夢魔との“契約”の証。足から力が抜け、ずるずると座り込む。その痣を握りしめるようにシャツの襟を握る。
――――また今夜、夢の中に会いに行くね
あの忌々しい夢魔の声が脳内で反響する。あれは本当に夢だったのか。それとも本当は現実だったのか。もう、分からなかった。顔を俯かせたまま、静かに呻く。
「………夢なら……………」
嗚呼、本当に、"夢"なら、良かったのに
† † †
ルクス氏には、"天使でなくなること"に無意識に、
本能的な恐怖を抱く程の純潔な天使であってほしいのです。