Mysophobia
† † †
「ア~ビスくん」
「…………!」
明日は休日。今日は勉強はやめて、図書室で借りた本を読み終えてしまおうと考えていた穏やかな夜は、突然窓辺から投げ掛けられた忌々しい声により終わりを告げた。しおりを挟みもしないまま本を閉じ、椅子から立ち上がると同時に声のした方へと勢いよく振り返る。声の主は少し大きめの窓の縁に腰掛け、屈託の無い笑みを浮かべてひらひらと手を振っていた。月明かりを受けるその背中には黒く艶めく蝙蝠のような翼が悠々と広がっている。
「………………」
声のひとつも発しないまま、笑顔の相手とは対照的な鋭い視線を返す。その視線をものともしていないかのように悪魔は肩を竦めて土足のまま室内へと足を踏み入れた。
「ああ、大丈夫。空を飛んできたからね、靴は汚れてないよ」
思わず床へと目を向けてしまったボクの考えを読んだかのように相手は言った。
「綺麗好きだもんね、キミ」
もっとも、そういう問題ではないのだが。
「…………こちらからすれば、貴様が"穢れ"そのものなんだがな」
「……言ってくれるねぇ……」
流石に気に障ったのか、悪魔の笑みが一瞬消え、代わりにひきつった表情が浮かぶ。
「……一応聞いてやるが、何の用だ。ここにはわざわざ悪魔が足を運んでくる理由など無いはずだが」
そもそも、ここ光の学園には聖なる力が満ちている。普通ならば、魔の者は自ら足を遠ざけるはずだ。長居すれば、自分が苦しいだろうに、何故。
「教えて欲しい?」
甘いマスク、とでも評されそうな顔がゆったりとした笑みを浮かべた。相手によってはこの笑みを向けるだけでも心を熱くさせることもあるのだろう。しかし、自分にとっては魔の者が浮かべる笑みなど不快なものでしかない。この不毛としか思えないやり取りを楽しんでいるかのような顔は、癪に障る。
「別に。用があるならさっさと済ませて帰ってもらいたいだけだ。冷やかしなら今すぐにでも追い出す。貴様に構っている時間が無駄だからな」
淡々と返せば、悪魔は肩を竦める。そして、おもむろに距離を詰めてきたかと思った瞬間には、指先で軽く顔を上向かされていた。
「ただ、キミに会いに来ただけだよって言ったら怒る?」
「………………」
「あいたっ」
顎を持ち上げている手を容赦なく払い、距離をとる。それから、わざとらしく払われた手をさすりながら苦笑している悪魔に辛辣に吐き捨てた。
「冗談にしてもタチが悪すぎる冗談だな。ボクは貴様になどちっとも会いたくなかったし、今こうして目の前で話をしていることにすら吐き気がする」
他の者の前ではあまり見せないであろう、眉をしかめた表情をした相手の横をすり抜け、彼が入ってきたばかりの窓の横に立ってその枠に手を触れる。
「さあ、お帰りはこちらだ、悪魔。さっさと出ていって、もう姿を見せてくれるなよ」
「………………」
相手の返事は無い。これ以上はこちらから何も言うことはないので仕方なく待つ。すると、顔だけをこちらに向け、腕を組んで顎に手をやったまま何か考えている様子だった悪魔は、不意に身を翻した。そしてドアの近くにある、部屋の明かりのスイッチを消した。途端に室内は暗闇に染まり、窓から差し込む月光が唯一の明かりとなる。
「…………どういうつもりだ」
「暗くすれば少しは雰囲気が出るかな~って」
「話を聞いていたか? ボクは今すぐ帰れと言ったんだが」
「オレは帰るとは言ってないよ?」
「貴様…………」
飄々とした物言いに思わず内心で歯軋りする。悪魔はくすくすと笑い、誘うように腕を伸ばした。
「そんなに帰ってほしいなら、ねぇ、引っ張ってってよ」
「…………………」
「……もしかして、悪魔に触れたくない?」
動こうとしないボクを見て、また嗤う。
「…………………」
キミ、"綺麗好き"だもんね、と悪魔の口端が弓なりに歪む。取り繕うこともなく眉をひそめてしまう。恐らく、肯定の意味として相手に伝わってしまうだろう。……事実、図星だった。
触れたくない。魔の者になど。"天使"として魔との接触は避けなければならない。さもなければ自身も染められてしまう。穢されてしまう。そんなことは、あってはならない。許されない。しかし、 いつまでもコイツと同じ部屋にいるのはもっと嫌だ。いつまでも魔物を部屋に留めてしまっていては、結局は同じことだ。
覚悟を決めて、ゆっくりと悪魔の元へと歩み寄る。僅かに見上げればゆるやかに微笑んだ顔が迎えた。本当に、癪に障る顔だ。目を閉じて呼吸を落ち着けながら手を伸ばす。一瞬だ、ほんの一瞬だけ我慢すれば普段の夜が戻ってくる。一瞬ならやむを得まいと神もお許しくださるだろう。
ところが、相手の手首を掴もうとした瞬間、逆に自らの手首を捕らえられ、ぐいと強く引き寄せられた。
「――――っ!?」
体がぶつかると同時に背に腕が回る。ざわりと羽が音を立てた。思わず目を見開いて、僅かに背の高い相手を見上げる。
「捕まーえた」
「な……っ、はな、せ…………っ」
やめろ。触れるな。半ば叫びながら もがくが、拘束は簡単に解けそうにはなかった。嗚呼これでは。これでは――――。おののくボクの顔を覗き込んで、悪魔がニィと嗤う。
「フフッ そんなに恐がらないでよ。酷いことしようとしてるわけじゃないんだからさ。キミを"堪能"したらホントに帰ってあげるから」
「冗談じゃ…………ッ」
腰に回された腕に一層強い力が込められる。体を抱き締めると言うよりも、折らんとでもしているかのように。締め付けられる痛みに思わず声が漏れる。暴れても、力の差は歴然で、相手の体はびくともしない。肺を押し潰され、息が出来ない。
「……ぁ…………っ」
酸素を求め喘ぐように口を開く。が、翼に覚えた違和感にまともな呼吸が出来なくなる。ざわり、ざわりと羽根が不自然な音を立てる。それに連動するように己の意思に反して体に小さく跳ね上がった。悪魔が背に回した手の先で翼を弄んでいるのだ。しかし、それが分かっても今の自分にはどうすることも出来ない。
「……く……っ…、や、め…………」
少しずつ体の力が抜けていく。声が震える。頭の中にモヤがかかるような感覚がする。耳を愉しそうに嗤う悪魔の声がくすぐった。
「ホントに面白いね、"キミたち"って。ちょっと弱点弄られたくらいでそんなになっちゃうんだから」
話しながら、指は翼の付け根に近付く。愛撫されているかのような ぞくぞくとした感覚に、無意識の内に拒絶の言葉がいくつも漏れる。
「ねえ、さっきまでの威勢の良さがウソみたいだね。もうちょっと抵抗してくれないと"穢しちゃう"よ?」
身を固くするボクを”慈しむ”ように微笑み、悪魔は背に回された腕の力を僅かに緩める。それから、少し体が離れたと思った瞬間、口を塞がれた。ほんの一瞬だけ楽になった呼吸が再び絶たれる。
「――――……っ……」
頭を抱きかかえられ、隙を突いて逃げるチャンスさえも奪われた。片腕では腰を抱かれ、全身が密着する。苦しい。苦しい。こんなものは、もはや拷問だ。反射的に閉じてしまった目を辛うじて開けば、霞む視界に鮮やかな水色が浮かぶ。必死に自身を奮い立たせようとする。こんな…こんな、悪魔に、いいようにされるなど……
「…………ッ!」
ガリ、という微かな音と共に突き飛ばされるようにして、体の拘束が解けた。バランスを崩し、床に尻餅をつく。見上げれば、驚いたようにこちらを見つめる顔の口端には血が滲んでいた。必死の思いで歯を立てたが、どうやら悪魔にも赤い血は通っていたらしい。
「フゥン…………」
荒く呼吸を整えるボクを見下ろしながら、悪魔が目元を細めるのが見えた。それから、一瞬の内にこちらが身を退くよりも先に座り込んだままの足の間に自分の身を滑り込ませ、手首を押さえ込みながらぐいと顔を近付ける。眼前で爛々と煌めく碧色の瞳が歪む。
「このオレの顔を傷付けて……どうなるか分かってるよね?」
「……っ……分から、ない…な…………」
「そう。じゃあ教えてあげる」
――――いつまでも強情で愚かな天使に。
悪魔が舌で自身の血を拭う。思わず体が緊張に強張る。背中にざっと冷たいものを感じた。
「味わわせてあげるよ、オレの味」
悪魔がそう言った瞬間、視界が青に染まった。もう一度唇を重ねられ、また息が止まる。後頭部を押さえられた状態では、いくら暴れても、相手の服に爪を立てても逃れることなど出来なかった。ぬるり、と咥内に異物が侵入する。思わず喉から声にならない悲鳴が上がる。瞳孔が開く。悪魔のそれが触れた瞬間、苦い鉄の味が舌の上に広がった。瞬時に肌が粟立つ。純粋な嫌悪感と、魔の者の体液を取り込まされる絶望。
「……ん゛…………っ」
舌が、艶かしく蠢く蛇のような相手のそれに絡め取られる。歯列をなぞられ、無様にも声が上がる。舌奥をつつかれれば本意ではない甘い息が漏れた。静寂の部屋におぞましい水音が響く。頭が、ぐらぐらする。やがて、指先が、足が、痺れを覚え始めた。
唇を塞いだまま、悪魔が少し身を乗り出す。同時に胸を軽く押され、今や木偶人形同然の体はいとも容易く床へと倒された。覆い被さるようにして なおも唇を貪られ、じわじわと恐怖心が沸き上がる。
「(喰われる)」
震える手を伸ばして、相手の体を引き離そうとする。しかし、ジャケットの袖に指をかけるのが精一杯で、縋っているようにしかならなかった。
もう何分経ったのだろう。頭に酸素が回らずまともに記憶をたぐることも出来ない。少しずつ、少しずつ意識が闇に沈んでいく。身体的にも精神的にも もう、限界だ。いっそ意識を手放してしまった方がマシなのかもしれない。―――――そう思ってしまったが最後だった。
それまで張り詰めていた糸が切れたように瞼が重くなる。幕が下りるように思考が暗闇に染まっていく。ぼやける視界の中、忌々しく光る碧色の瞳が何か言いたげに細められているのだけが、妙にハッキリと映った。
「………………」
ふと、腕にかけられていた華奢な指先がするりと流れ落ちた。…………ああ、遂に気絶しちゃったのか。挿入していた舌を引き出す。舌先から伸びた透明な糸の太さがどれだけ長い間口付けていたかを物語っていた。天使の濡れた唇を指先で一度なぞり、深く息をつく。
「……やりすぎたかな」
閉じられた目の端がほんの少しだけ濡れていた。そんなに嫌か、と思う。確かに天使と悪魔は相容れないし、お互いがお互いの身を穢すのも嘘ではない。けれども少し触れるくらい、彼らの信じる神とやらだって許してくれるだろうに。あんまりにも拒絶されるものだから、こちらが逆に燃えてしまうことにこの愚かなまでに純潔な天使は気付いていないのだろう。……まぁ、そんな態度を構うのが愉しくないのかと言えば、愉しいのだけど。
ぐったりとした身体を起こし、抱き上げる。軽い。天使達の中ではしっかりしている方なのだろうが、華奢としか言いようが無かった。本当に少し力を込めれば”壊して”しまえそうな程に。部屋の隅にある、綺麗にシーツの整えられたベッドへとその体を横たえる。それから縁に腰掛け、なんとなしに広がった長い髪を、爪を立てるようにして梳いてみた。目を覚まさないのを良いことにその一房を指に巻き付けて弄ぶ。ほら、このくらいなら何も変わらないじゃないか。もっとも、それは彼がいつまでも折れない”愚か”な天使であるからかもしれないけれど。何度も何度も限界まで追い込んでいるのに、最後まで本当の意味で心は折れない。本当に、生意気な天使。
「……ああ、もうこんな時間か」
乱れた髪を一通り整えたところで窓の外を見やると、もう随分と月の影は薄れていた。流石に、長居しすぎたかな。相手にはバレないように振る舞っていたけれど、そろそろ自分の身体もつらくなってきた。天使の学園に満ちる聖なる力は、この身体には毒になる。それでもそれを気取られないでいられたのは、今日が月夜だったから。月には魔力が込められているとか、月は人を狂わせるとか言われるけれど、それは決して嘘ではないから。
はあ、と一つ大きく溜息をつく。
「…………早く堕ちちゃえばいいのに」
眠る天使に向けて、呪詛に近い言葉を囁く。いつまでも苦しんで、いつまでも拒絶して本当に愚かだ。キミみたいに未熟な天使には”オレたち”を退けるほどの力なんて無いんだから。さっさと諦めて、オレの物になってしまえばいい。
華奢な腕を持ち上げて、その手首に牙を立てるようにして口付ける。
「早く堕ちてしまえ」
悪魔-オレ-なら、深い深い闇の淵でも キミを“愛して”あげられるから
† † †