Snow tears
※メリバ注意
「天使は恋をしてはいけないという禁忌を犯せば徐々に羽根が抜け落ちていく」設定。
† † †
天使は特定の他人を愛してはならない
その禁忌を犯せば、二度と天には戻れない――――
† † †
「……この島にこんな場所があったとはな……」
そんな事を呟きつつ、掛金が壊れ、材木も朽ち、もはや枠しか残っていない、既に役目を果たしていないも同然の扉を律儀に開きながら、学生服を身に纏った、紫髪の天使は中へと足を踏み入れた。
見渡せば外観と同じように所々壁が崩れた内装。その石の隙間からは苔がむし、蔦が壁を這うように伸びている。見上げれば天井の穴から木々の葉と、その隙間から僅かに空が見えた。正面には恐らくそこには多くのガラスが嵌められていたのであろう大きな格子状の鉄枠。その手前に立てられている十字架は既に朽ちかけ、蔦の添え木と化していた。
「ここには……もう神様の気配は感じられないねぇ……」
静かに零された声に、彼は自分の後から入ってきた、金髪のもう一人の天使を振り返る。
「ああ…… こんな様子では、無理もないだろうな……」
紫髪の天使――アビスはもう一度ゆっくりと辺りを見回し、短く息を吐いた。
† † †
森の奥深くに、ぽつんと佇んでいた寂れた教会。彼らがこれを見つけたのは、ほとんど偶然のようなものだった。クエストからの帰り道、ふと道ばたに目を留めたのはルクスだった。
「見てアビス、スノードロップが咲いているよ」
「ああ。それがどうかしたのか」
アビスが促されるようにそちらへ目をやると、確かにそこには小さく真っ白な花が一輪、風に揺れていた。しかし、自分は花に対して特別興味を持っているわけではないし、それはルクス自身も同じだろう。それゆえに、何が彼を立ち止まらせたのか。その意図を問うように視線を相手へ向け直す。
「ほら、それからあそこにも一輪」
彼が指差す先に再び目をこらすと、生い茂った草に紛れて、ぼんやりと白い色が見えた。
「……それで?」
目を細めて森の奥を眺めたままアビスは今一度問う。
「ちょっと、辿ってみない?」
如何にも何かありそうじゃない? とどこか楽しげな様子のルクス。対してアビスはその整った眉間に皺を寄せ、長く息を吐く。そして相手に向き直り口を開いた。
「駄目だ」
「え~ どうして?」
「ボク達はクエストからの帰路についている最中だろう。寄り道など、許されるはずが―――」
「アビス、キミは頭が固すぎるよ。これは寄り道じゃなくて、探索。この島にはまだ謎が多いようだし、こういう事も必要だと思うよ~?」
「………………」
「それに、僕の勘だけど……何かありそうな気配がするんだよね~」
「何か?」
訝しげに返すと、ルクスは口元に指の背を当て小さく笑った。
「フフフ さあ、行ってみようか」
不思議なことに、二輪目のスノードロップの先には更に一輪同じ花が咲いていた。一定の間隔で点々と、あたかも道しるべであるかのように咲く花に沿うように、森の奥へと進んでいった彼らが見つけたのがこの教会だった。
「……教会…か。キミの言った通りだったな」
"何か”の影が見えた頃、それを眺めたままアビスは言った。だが、隣にいるはずの相手から返事は返ってこなかった。
「ルクス……?」
不審に思い目を向けると、彼は建物の方を向いたまま何かを考え込んでいるように見えた。そして、漸く呼ばれた事に気付いたらしく、こちらを向いた。
「ああ、ごめんね。ぼーっとしてたよ。何か言った?」
「……いや、いい。ともかく、中も調べよう」
† † †
そうして、教会内をくまなく調べたが、この建物がいつ、何の目的でこんな場所に建てられたのか、様々な疑念の答えのヒントは何も見つからなかった。
「……この中にも咲いているんだな」
ふとそう言ったアビスの足元にはスノードロップ。それは例によって一輪、朽ちた十字架の根元にぽつんと咲いていた。
「………………」
背後に居るルクスからは、またも無音が返ってきた。言いしれぬ違和感を覚えるが、特に返事を求めるような発言でもなかったし、返事が返ってこないのも無理はないと思い直す。
「……せめて、蔦だけでも取り除いておこうか」
十字架を見上げ、独り言ちながらアビスは添え木に絡んだ蔦へと手を伸ばした。
その瞬間、
「愛してるよ、アビス」
「――――!?」
静かな空間に声が響いた。思わず弾かれたように振り返る。幻聴か聞き間違いか何かだと思った。何故ならこの場には今、自分と彼しか居ない。しかし、発された声は紛れもなく彼のもので、その表情は至って真剣で。それは幻聴でも聞き間違いでもないことを嫌でも理解させた。アビスの背に冷や汗が伝う。
「…………ルクス……、キミは……、何を、言っているんだ」
急激に身体が冷える感覚が襲った。無性に喉が渇く。
何故、いつものように笑っていないんだ。何故、いつものように”冗談”だと言わないんだ。半ば祈るような言葉は、浮かぶばかりで声にならない。やっとの思いで言葉を絞り出すが、また掠れる。
「ルクス……それは」
それは禁忌だ。
『天使は特定の他人を愛してはならない
その禁忌を犯せば、二度と天には戻れない』
そんな事、そんな当然の事、彼だって分かっているはずだ。それなのに、どうして。
「ごめんね……。もう、終わらせなきゃいけないと思ったんだ」
「………………」
困惑と怪訝が入り交じったような表情をするアビスに、ルクスは僅かに困ったような笑みを浮かべる。
「……この教会を見つけた時に、ここで終わらせるべきだと思ったんだ。アビス、キミは知っているかな。スノードロップは清らかな修道女の魂だと言われる事もあるということを。神に仕える身でありながら、他人を愛してしまい、それでもなお神への忠誠を捨てきれないまま息絶えた修道女のね。人間だった彼女の魂は可憐な花へと姿を変えたけれど、僕ら天使は……どうなるのだろうね」
不意に、アビスの視界の端で何かがふわりと舞った。それに目をやって、思わず息を呑む。羽根だ。彼らの背から美しく広がっている、天使である象徴の。
ふわりふわりと、何本もの羽根がまるで雪のように、普段とは違う、明らかに不自然な間隔で抜け落ちていた。彼の―――ルクスの翼から。
「る、ルクス……」
自分でも驚くほどに声が震えていた。対してルクスは漸く自身の異変に気付いたかのように、足元を見つめて、「あぁ」と声を漏らした。
「……なるほど、こうなるん――ッ!?」
突然ルクスの身体が、がくんと僅かに後ろへ傾いた。否、正確には、彼は不意に襲ってきた衝撃を受け止めきれなかった。
「―――”冗談”だと言え! ルクス!!」
彼の肩を強く掴んだアビスが、切羽詰まった表情で叫んでいた。今にも揺さぶりそうな勢いで、縋るような指が肩に食い込み、掠れた低い声が祈るように、ルクスの鼓膜を震わせる。
「お願いだ……ルクス……。冗談だと言ってくれ……、否定してくれ… キミのその感情を……。さもないと……キミは……。……今なら、まだ間に合うかもしれな―――――」
「駄目だよ」
「――――っ」
「ごめんねアビス、僕はもう、自分の気持ちを隠す気は無いんだ。僕は、キミのことを想っていたんだ。ずっとずっと前からね……」
「ルクス……そんな……。ボクは、そんなこと、認めないからな……」
今にも泣き出しそうな相手にそっと微笑む。
「……良いんだよ、キミがそんな顔をしなくても。認めなくて良い。これは、僕自身の罪なんだから」
「………………」
アビスは表情を歪め、何かを堪えるかのように軽く目を伏せ、ルクスの肩から手を離す。そして瞼を閉じ、長く、長く息を吐いた。
幾ばくかの静寂の時が過ぎた後、ゆっくりと紫色の瞳が開かれた。そこにはもう、先ほどまでの苦しそうな色は無く、何か覚悟を決めたかのような、凛然とした色が浮かんでいた。
「……本当に、取り消す気は…無いんだな……」
「うん……無いよ」
「…………そうか…。キミの気持ちは、よく分かった。それならボクも、一つキミに言っておきたい事がある」
「ふふ 何かな」
そう言って軽く笑いかけると、アビスはまた僅かに表情を歪める。しかしすぐに持ち直し、ルクスの顔をじっと見据えた。形の整った唇が薄く開く。
「……ボクも、キミを愛している。ルクス」
「………………え……?」
今度はルクスが呆ける番だった。
「愛している。恐らく、キミと同じくらいずっと前から。だが、この感情は永遠に、心の内に秘めておこうと思っていた。キミを、ボクのこんな感情に巻き込みたくなかった、穢してしまいたくなかった。キミには一点の穢れも無い清らかな天使のままで居てほしかった。それなのに……キミ自身に、ボクの願いを無下にされるとはな……」
最後は自嘲気味に口端に笑みを浮かべながら、アビスは言った。そして、苦しげに息を吐き胸元に手を当てた。瞬間、ルクスの胸に割れるような激痛が走った。反射的にアビスと同じように胸を押さえる。
「は…… なる、ほど……。これが、禁忌を犯した罰…お互いに想い合ってしまった罰、か……」
喘ぐように呟いて、アビスがゆっくりと地面に膝をつく。ルクスも、急激に自分の身体から力が抜けていくのを感じ、膝を崩す。もはや彼の翼は羽根がほとんど抜け落ち、光輪も微かな光を放っているだけだった。
「アビス……どうして……」
「なに、が……」
片手を地につき、胸元を強く握りながらアビスは僅かに顔を上げる。
「キミなら、規律を何よりも重んじるキミなら、僕のこの行動を批難するものだと…僕を拒絶するものだと思ってたよ……。それに…そうしていれば…キミだけでも、助かったのに……」
相手の背から、はらはらと花びらのように散っていく羽根を見つめてルクスは唇を噛む。知らなかった。彼も、そんな感情を抱いてくれていたなんて。思いもしなかった。誰よりも”天使”である事を重んじていた彼が自分を”愛して”いてくれたなんて、そして……こんな選択をするなんて。
だからこそ自分は、”自分自身を終わらせようと思った”のに。
「ごめん……」
絞り出すように零れた言葉と共に、何かが頬を伝った。それを見たアビスがその頬に片手を添え、そして微かに笑う。
「……ボクも、随分と”侮られた”ものだ。我が身大事さに、キミだけを往かせられるわけがないだろう……?」
紫の瞳から流れた雫が顎を濡らす。ルクスが指を伸ばすと、彼の頬に添えられていた手が、それを遮るように掌に重ねられた。そして、自ずと指を絡め合う。
「アビス……」
「神様は、ボクらをお許しにはならないだろう。だから、今一度、ボクはキミに誓おう。……ルクス、ボクはキミを――――」
「待って。……そんな、キミばかり言わないでほしい……。そもそも、僕の方から言い出したことなんだから……さ」
思わず口を挟むと、相手は一瞬目を丸くし、苦笑するように息を吐いた。
「キミは……変なところで拘るんだな……」
「ふふ……そう、だね。でも、ごめんね、先に言わせて。アビス、僕はキミを愛するよ。死が二人を分かつまで」
「……いや、違うな」
「え……?」
「死が二人を分かとうとも、だ」
今度はルクスが軽く眉を持ち上げる。それから、穏やかに笑みを浮かべた。
「……ああ……そうだね……
死が、二人を分かとうとも――――」
そこで一瞬口を噤み、二人の視線が絡む。
「僕はキミを」「ボクはキミを」
『愛してる』
どちらからともなく、そっと、口づけを交わす。
窓枠から、落ちた天井の隙間から差し込んだ光が、廃れた教会の中を静かに照らした。朽ちた十字架の前には一輪のスノードロップの花と、その花びらによく似た白い羽根が一面に広がっているだけだった。
† † †
スノードロップの逸話の辺りは若干創作入ってます。