その香りの名前は
† † †
男性のものにしては すらっとした指先が細い取っ手を持ち上げる。形の整った唇がカップの縁に軽く触れる。ゆっくりと睫毛が上がる様を眺めていると、見られていることに気付いたのか、真っ直ぐな紫の瞳がこちらを向いた。
「アビス、今日の紅茶は何か分かる?」
問えば、ほんの少しだけ考えるように目を伏せ、カップをソーサーに戻す。
「……『ノブレス・ド・ラフィネ』、天界の北、寒暖差の激しい標高の高い山麓でしか育たないが、それゆえに独特な風味と強い香りを持つ。したがって最も良い飲み方はストレート。また、セカンドフラッシュのものはどこか果実を思わせる風味があり、最も人気が高いとされる」
「わあ、ご名答。実に模範的な回答だよ、流石だね」
アビスは暗記していたかのように すらすらと回答を口にする。嬉しさを隠さないまま賞賛を送れば、わざとらしく映ってしまったのだろうか、相手はどこか苦笑するように小さく息を吐いた。
「それは……まあ、こうも毎日のように”講座”を受けていればな……」
そう、アビスは元から紅茶に詳しいわけじゃない。そんな彼に知識を教え込んだのは他でもない、この僕だ。こうして、二人きりの秘密のお茶会を開く度にその日の紅茶の種類、産地、特徴……僕の持てる知識をお茶請けの代わりに語って聞かせた。当然ながら初めは”クイズ”を出しても間違えることが多かった。興味は無かっただろうに、それでも勤勉な性格の彼は本当によく覚えてくれた。学業にはほぼ繋がらないであろう知識を、彼が”僕のためだけに”覚えてくれた。その事実に、僕が密やかに高揚感を抱いているとはきっと知らずに。
「お味の方はどうかな?」
「そうだな…… 少しクセは強めだが、ボクは嫌いじゃない」
「フフフ 良かった」
また一口、アビスが紅茶を口に運ぶ。ふわりと心地よい香りが漂い、僕たちを包み込む。自身もまたティーカップに口付け、喉を潤せば、揺れる琥珀色の水鏡に自分の唇が小さく弧を描いているのが見えた。
「実はね、僕が一番好きな紅茶なんだ」
『ノブレス・ド・ラフィネ』――――『洗練された気高さ』を冠するこの茶葉の、芯の強さを感じさせる風味と気高く芳しい香り。まるで彼を思わせるようで。
「……そうだったのか。キミは香りの強い紅茶をよく選んでいるようだが、一番の好みもあったんだな」
「フフフ 僕の好みの傾向に気付いてくれてたんだ」
「…………なんとなく、だがな」
アビスは軽く目を伏せる。一瞬、ほんの一瞬だけ口元が緩んだように見えた気がしたけれど、すぐにカップの陰に隠されてしまい、確信は持てなかった。また、ふわりと紅茶の香りが舞う。
空になったティーカップがソーサーに戻されるのを見て、立ち上がる。そして座っている隣まで歩いて行けば、彼は顔を少し上向けた。
「ルクス……?」
おもむろに手を伸ばし、髪を一房手に取った僕を理解しかねている様子の瞳と目が合う。それに小さく笑みを返しながら、手元の髪へ軽く口付けた。その拍子に、僅かに心地の良い香りが鼻をくすぐった。ああ、本当に素敵だ。紅茶の香りも。――――その紅茶の香りを纏う彼も。
僕が香りの強い紅茶を飲むのは決して好みだからと言うだけではない。自分と同じ香りを相手にも纏わせる…ある意味”マーキング”とも言える行為をしていることを知ったら彼は軽蔑するだろうか。紅茶の知識を教え込むのも、紅茶の香りを纏わせるのも、全ては、僕のためだ。
「大好きだよ、アビス」
「―――――…………」
だから、どうか、僕好みの天使になっておくれ。
† † †
一応書いておくと茶葉の名前はオリジナルです