Forbidden fruit Ⅰ
† † †
――――それは、感情を、想いを、露わにさせる禁断の果実
「寝坊をするなど…このボクとしたことが……」
ぶつぶつと一人でぼやきながら、学園の廊下を、走らない程度の速さで急いで歩く。辺りに人影は無い。予鈴はまだ鳴っていないが、これは思っていた以上に遅刻しているのではないだろうか。授業に遅れるなど、風紀委員としてあってはならないことだ。少し速度を上げ、教室がある廊下の角を曲がろうとしたその時、
「…………?」
この先の、突き当たりの角を曲がる何者かの姿が見えた。正確には何か、紫色をした布の端のようなものが。学園にはあんな色の服を着てくる人物など思い当たらない。となれば、考えられる可能性は多くない。
「不審者……?」
もしそうならば、一大事だ。鳴り始めてしまった予鈴を背後に聞きながら、ボクは、廊下の突き当たりを曲がった。
「――――――」
角を曲がった先は……静まりかえった空間だった。普段見るのと変わらない、いつも通りの廊下。この廊下の先は行き止まりで、壁沿いにある教室は生徒会室のみとなっている。中に誰も居ないときは生徒会室の施錠されているはずだから、あの角を誰かが通ったなら、人影が一切無いのは不自然だった。……先ほど自分が見たのは気のせいだったのだろうか。
それとも、まさか。
生徒会室の前まで駆け寄り、扉へ手を掛ける。開けようと試みるが、鍵はきちんとかけられており、扉はびくともしなかった。
「……………」
やはり、見間違いだったのか。違和感はまだ拭えないが、何も無い以上、一刻も早く教室へ向かわざるを得ないだろう。来た道を戻るために身を翻そうとした。瞬間、
「こんにちは」
「――――!?」
不意に背後……それも自身のすぐ後ろから何者かの声が響いた。反射的に、飛び退るように振り向きながら距離を取る。
「おや…驚かせてしまいましたか。これは失礼いたしました」
そこに立っていたのは、暗い色のローブを纏い、同じ色の三角帽子を深めに被った少女だった。くるくると巻かれた鮮やかな赤い髪がよく映えている。
「……キミは、何者だ」
嫌な汗が頬を伝う。己の勘が外れていなかった事に安堵するべきか外れている事を祈るべきだったか。思わずそう考えてしまう程に、目の前の少女の雰囲気は”異質”だった。その身にまとう空気が明らかに浮いている。天使が通うこの学園の聖なる空気と違うそれは、どう見ても魔の者がまとう"それ"だった。緊張を押し殺すように口を開く。
「……校内に、許可無く部外者が立ち入ることは禁じられている。許可は取っているのか?」
「わたしは…名乗るほどの者ではありません。何はともあれ、リンゴは如何ですか? とっても美味しいリンゴですよ……」
質問にはほとんど答えず、少女は腕に提げたカゴからリンゴを1つ取り出した。それを見て思わず眉を顰める。そのリンゴは明らかに”異常”だった。青色…と言っても緑色ではない、空のように鮮やかな色をした”それ”は、何かをかけられているのか、上部が紫色に濡れていた。
「断る。それよりも、許可を取っていないと言うなら、然るべき措置を執らせてもらうぞ」
厳しい口調で威圧すると、相手はリンゴを持ったまま くすくすと笑う。
「おぉ怖い……」
「馬鹿にしているのか」
「いえいえ、とんでもございませんとも。わたしはただ、あなたの悩みを解決する手助けをしたいだけなのですよ」
「……なんだと?」
不意に飛び出してきた単語に思わず呆けてしまう。確かに、ボクだって人並みに悩みは持っていると言える。しかし、この状況において、こんな発言が出てくるのは会話の流れとして些か不自然だった。
「お分かりになりませんか。でも心配は要りません。このリンゴを食べればその悩みも、それを解決する術も――――」
「……そんなものは不要だ。さあ、出口はこっちだ。大人しくついてきてもらおうか」
このまま話していても埒があかない。そう判断し、身を翻す。と、何か、蔓のようなものが手首に絡みついた。
「――っ!?」
ぎょっとして振り向く。しかし、手首を掴んでいたのは少女の手だった。今の感覚は錯覚だったのだろうか、と考える間も無く、手の平を両手で包み込むように握られ、またもおののく。
「まあまあ…… そう怖がらないでくださいな。一口だけでも……ね?」
ふわりと、香りが漂い始める。強引にリンゴを持たせてきた少女は、ボクの手を握ったまま静かに微笑む。
「さあ、お食べなさい。味は保証しますから。天にも昇るほどの美味しさですよ。フフフ……」
噎せ返るような甘い香りに頭がくらくらする。頭の中に『食べろ』という声が反芻する。今すぐに投げ捨てたいと思っても、手の拘束は未だ解かれず叶わない。
「く…離せ……」
「臆することはありません。すぐに楽になれます。早く、悩みごとから解放されましょう……?」
「そんなものは…無い……っ」
否定する度に、甘い香りが強くなる。抗えば抗うほど、絡みつくように。
「…………っ」
体が言うことを聞かない。糸で操られているかのように、自身の手が口元までリンゴを持ち上げる。魔法にかけられたかのように、もはや視線さえもリンゴから逸らすことが出来ない。
「さあ……召し上がれ」
唇が触れる。歯が、触れる。不気味なリンゴ越しに、少女の笑みが見えた。
「――――」
じわりとした食感と、毒々しいまでの甘さが口の中へと広がった。妙な熱が喉元を過ぎる感覚に、知らず肌が粟立つ。漸く、身体が拘束されていたような感覚から解放される。動ける。こんな危険な人物は一刻も早く捕らえなければならない。手を伸ばす。しかし、指先が少女のローブへと触れようとした瞬間、心臓がドクンと大きく脈打った。
「――――ッ!?」
手は、虚しく空を切る。締め付けるような苦しさに耐えきれず、床に膝をつき、胸元を強く握りしめる。頭上からは微かに、少女の満足そうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ…… 如何です? 目が眩むほどの美味しさでしょう?」
急激に身体が冷えていく感覚がする。視界が霞み、揺れる。
「貴…様……」
呼吸は乱れ、声が掠れる。
「覚えて、おく…からな……」
「それは光栄です。それではやはり、わたしの名前を申し上げておくことにいたしましょう」
もやがかかる視界の中、床に手をついたままのボクと目線を合わせるようにしゃがみ、少女は軽く礼をした。
「わたしの事は、どうぞ”どくりんご”、とお呼びください」
あなたがもし、目を覚ますようであれば。
言葉を最後まで聞くか聞かないかのうちに、ボクの意識は闇へと沈んでいった。
† † †
放課後。今日は少し早く授業が終わった。せっかくだから早めに行って、みんなの分のお茶を用意しておこう。そんな事を考えながら、生徒会室へと向かう。そういえば、今日アビスは欠席だそうだ。彼と同じクラスのフローレ曰く、特に連絡も入っていないらしく、そこに少し違和感を覚えた。彼ともあろう者が連絡もなしに授業を休むことなどあるのだろうか。昨日は特に体調が悪かった様子でもなかったし、であれば、他に何かあったのだろうか。気が気ではないが、本人の状況が分からない以上はどうしようもない。とりあえず今日の生徒会が終わったら、彼の部屋を訪ねてみようか……
「…………おや?」
目的地へ近づいたところで、その付近に何か物陰があるのに気付いた。……否、”誰かがいる”のに気付いた。
「…………」
“それ”が何であるかが少しずつハッキリするにつれて、歩くスピードが上がっていく。まさか、という感情が頭の中を駆け巡る。何故なら。
「アビス……!?」
そこに横たわっていたのは、今日欠席だったはずの風紀委員、その人だったのだから。
床に長い紫髪を広げて、彼は廊下に倒れていた。普段強い意志を宿している瞳は閉じられ、しゃんとしている羽は、今は力なく床にしなだれている。
「あ、アビス……どうしたんだい……?」
まず意識があるのかを確かめようと、身体に触れる。しかし、軽く揺さぶってみても、目を開ける気配がない。次に、軽く頬に触れてみる。
「ねえ―――…………!?」
そして反射的にその手を離してしまった。
「――――――」
肌が、異様なまでに冷たかった。長時間、極寒の中に放置されたか、或いは…既に生命力を、失っているかのように。急激に血の気が引いていくような感覚に襲われる。僅かに震え出す指で、もう一度相手の頬に触れる。ひやりとした冷たさが指先から伝わる。気のせいではない。身体を強く揺さぶり叫びそうになる衝動を堪え、自身に冷静になれと言い聞かせる。冷静になって、状況を把握するんだ。…………身体は、氷のように冷たい。しかし、その肌はまだ血が通っているかのようで、唇は微かに薄紅色をそこに残している。
「……ごめんね」
横になっている身体を一旦仰向けにし、胸元にそっと耳を当てる。息を殺し、半ば祈るような気持ちで神経を集中させる。すると、小さく、ほんの僅かに、心臓の鼓動が聞き取れた。思わず、深く息を吐き出す。良かった…… 一瞬でも頭をよぎってしまった恐ろしい考えを払うように頭を振る。
しかし、最悪の予想は外れたとはいえ、この状況をどうすればいいのかは分かりそうもなかった。少なくとも異常な、そして緊急な事態であることは間違いない。生徒会室のテーブルに、遅れるとの旨を書き置きしてから、冷たい身体を抱き上げる。―――と。
「……!」
そこで漸く、もう一つ何かが床に転がっていたことに気が付いた。
「……リンゴ……?」
ただし、色は明らかに“異常”な。彼を抱えたまま、床に片膝をつき、それを拾い上げる。その瞬間。
――――――ぃ……
「!?」
頭の中に、何者かの声が響いた。
――――――お食べなさい
「…………っ」
思わず放り出すと、リンゴは再び床の上を軽く転がった。よく見ると、上を向いた面に小さく歯形が残っていることに気付く。これが、彼がこんな状態になっていることと関係があるのは間違いないだろう。
意を決して、それをもう一度手に取り、僕は、その場を後にした。
† † †