Forbidden fruit Ⅱ
† † †
彼の部屋は、とても質素なものだった。無駄な物は一切置かれておらず、生活に最低限必要な家具が設えてあるだけだ。机の上も綺麗に整頓されており、カーテンも寸分違わず折り目通りに畳んでまとめられているのが、彼の性格をうかがわせる。同じく質素な寝台に彼を横たわらせ、自身は椅子を引いてきてそれに腰掛けた。それから、眠る相手の顔をそっと覗き込む。
……本当に、眠っているだけであるかのようだ。だけど、どんなに息を殺して耳を澄ましてみても呼吸する音は聞こえやしないし、身じろぎ一つも、しやしない。胸に触れてやっと僅かに感じる心臓の鼓動だけが、まだ彼は”ここにいる”事を教えてくれる。僕を安心させてくれる。
あれから僕は、彼を連れて医務室へ向かった。保険医ならば、解決する術を知っているかもしれないと思ったからだ。しかし、保険医が手を施してみても、彼は目を覚まさなかった。ただ、不気味なリンゴを見せ、詳しく調べて貰うと、やはりこのリンゴが彼をこんな状態に陥れた原因である事が分かった。原因は、このリンゴに染み込んだ毒。それも、何らかの術がかけられた”魔法毒”。原因を告げたとき、保険医は苦い顔を浮かべた。何故なら、それは単なる毒とは違い、ただ解毒薬を作れば問題が解決するわけではないからだ。解毒方法は、毒を作った本人にしか分からない。つまり、この毒リンゴを作り出した人物を見つけない限り、彼が目を覚ますことはない。絶望的だった。犯人の姿を見たのは、恐らく彼しか居ない。保険医も、不審な人物が侵入したという連絡は特に聞いてはいなかったそうだ。
ちらと机の上に置かれたリンゴを見やる。部屋に持ってくる際、今度はリンゴを持っても頭の中に何者かの声が響くことは無かった。香りも、微かに甘い香りが漂ってくるだけで、初めに目にしたときの異様な気配はだいぶ薄れていた。
「アビス…… キミは何故、こんなリンゴを食べてしまったんだい……?」
目元にかかる前髪をのけてやりながら、返事が返ってこない相手へと話しかける。すると、突然 羽がざわりと総毛立つような感覚が襲った。同時に、静かな少女の声が響く。
「それはね、そのお方が深い悩みを抱えていらしたからですよ」
「――――!!」
音を立てて立ち上がり、声の方へ振り向く。
「こんばんは、初めまして」
相手は恭しく礼をした。普段ならこちらも挨拶を返すところだが、僕はそのまま動かなかった。青みがかった深い紫色のローブ、同じ色の三角帽子に映える赤い巻き髪、全身に枯れた蔦を這わせた少女は、明らかにただならぬ気配を醸し出していた。そして、何より僕は、彼女の声に聞き覚えがあった。
「……キミの…仕業だね……」
それは、生徒会室の前でリンゴを手にした時に頭の中に響いた声そのもの。少女は答えず、静かに笑みを浮かべる。
「……どうして、こんなことを?」
「申し上げたでしょう。その方が何かお悩みだったからですよ」
「悩み? それがどうして関係あるんだい? まさか、最近眠れない、なんて悩みじゃないよね」
もっとも、彼がそんな事を言っていた記憶も無いし、そんな様子でも無かったことを僕は知っている。
「……さぁ…、それはわたしには分かりかねますので……」
「……分かった。それじゃあその話はもういいよ。この毒…いや、魔法を解く方法を教えてもらえないかな」
このまま話していても埒があかないと判断し、本題に入る。魔法毒の解毒方法は作った本人にしか分からない。であれば、わざわざ向こうから来てくれたというのに、逃がすわけにはいかない。
「まあまあ…そう焦らないでくださいな。ひとまず、リンゴなんて如何です?」
「あいにくだけど、要らないよ。僕は今欲しいのは、キミのそのリンゴの解毒方法、それだけだよ」
「……何故、ですか?」
「……何故?」
心底不思議そうな様子で少女は首を傾げた。首の傾きに合わせて巻き髪が揺れる。
「おかしな事を聞くね。友達の危機を救いたいと思うのは当たり前の感情じゃないのかな」
「……本当に、それだけですか?」
まばたきもせず、見開き気味のままの目がじっと見つめる。その、どこか人外めいた様子に少し厭な感じを覚えるが、それを表に出さないよう、自身を取り繕うように笑みを作る。
「……そうだよ? さあ、いつまでもキミとお話をしているわけにもいかない。そろそろ解毒法を教えてもらえないかな」
話を打ち切るように、相手に詰め寄ろうとする。
「……そう、ですか」
しかし、俯いた少女がぽつりと言った言葉に思わず足が止まってしまった。
「では、そのお方の魔法はいつまでも解けないかもしれませんね」
「……!」
「一つだけヒントを差し上げましょう。カギはあなた自身なのですよ。どうぞ、素直におなりなさい……」
ふわり、と どこからともなく甘い香りが漂い始める。まずい、と思った時には遅かった。一瞬がくんと頭が揺れた。そして、どうにか頭を上げた頃には、少女の姿は煙のように消え失せていた。ベッド脇のテーブルの上に置いてあったはずの、毒リンゴと共に。
翌日、朝、部屋を訪ねてみても、やはりアビスは目を覚ましてはいなかった。昨日運び込んだままの状態から少しも変わらないまま、彼は静かに眠っていた。シーツに広がる長髪は一糸の乱れも無く、血の気の引いた白い肌は精巧な彫刻のようで、感嘆よりも先に、言いしれない不安を湧き上がらせた。その陶器のような肌に触れると、ひやりとした冷たさが伝わり、一層不安が募る。思わず、縋るように床へ膝をつき、胸元に耳を当てる。微かに、ほんの僅かに鼓動が聞こえる。まだ……まだ、大丈夫だ。
「アビス…………」
僕の、大事な…………
† † †
「――――――」
誰かに呼ばれた気がして、目を開く。真っ先に視界に映ったのは白。辺り一面に広がる白だった。雪に覆われたかのような景色だが、響く音も、流れる風も無く、ただただ無機質な印象を受けた。
「ここは…………」
ここは、どこなのだろう。
「そうですね……、あなたの心の中……とでも申しましょうか」
「…………!」
声に出していない問いに答えたのは、記憶に新しい聞き覚えのある声。淡々とした世界に じわりと滲んだ違和感が顕現したように、暗い紫色のローブを纏った少女が、いつの間にかそこに立っていた。
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